朗読、舞台、児童向け映像などへの展開があるが、特定作品について監督、製作国、主要出演者、原作との差異という必須情報を同一版として確定できる独立資料が不足している。このため、報品表では未確認の映像化情報を掲載していない。
今後改編情報を加える際は、朗読音源、紙芝居、教育番組、劇映画を同じ『映像化』としてまとめないことが必要である。特定版の製作者と内容を確認して初めて、原作との差異を比較できる。本文は日本語原文で、翻訳ではない。公開版には旧字旧仮名版と新字新仮名版が存在し、底本によって字体やルビが異なる。唐代の『杜子春伝』を典拠とする創作であるため、現代語訳や原典翻訳と混同せず、芥川作品としての本文を選ぶ必要がある。
注釈付きの版は唐代の原典との関係や固有名詞を理解するのに向き、児童向け再話は文章を平易にする一方で省略が生じやすい。芥川自身の文体を読む目的なら、再話ではなく校訂された原文を選びたい。かつて長者の息子だった杜子春は、全財産を使い果たして洛陽の西の門の下で途方に暮れていました。そこへ片目の不思議な老人が現れ、夕日に映る自分の影の頭のあたりを夜中に掘るよう告げます。杜子春がその通りにすると、車に余るほどの黄金掘り出され、一躍洛陽一の大金持ちとなりました。 杜子春は豪華な屋敷を買い、贅の限りを尽くした暮らしを始めます。しかし、いくら大金持ちでも金の力には限りがありました。三年も経つと再び貧乏になり、かつて毎日押し寄せていた友人たちは挨拶どころか家すら貸さず、椀一杯の水さえ恵んでくれなくなります。人間の薄情さに打ちひしがれた杜子春が再び西の門の下に立つと、またあの老人が現れました。 老人は自分を峨眉山に棲む仙人・鉄冠子だと明かします。世間の浅はかな人間関係に愛想がつき、金持ちになることにも虚しさを感じていた杜子春は、鉄冠子の弟子になって仙人になる修行を志願しました。 鉄冠子は杜子春を峨眉山の深い谷にある一枚岩へと連れて行き、「自分が西王母に会って帰る間、何が起きても決して声を出すな。一言でも喋れば仙人にはなれない」と強く命じて去っていきました。 一人残された杜子春のもとには、恐ろしい猛獣や大蛇、さらには毒蛇を率いた神将が現れて命を脅かします。しかし、杜子春は固く口を閉ざし、黙り続けました。痺れを切らした神将は三叉の戟で杜子春を突き殺します。 魂となった杜子春は、闇穴道の冷たい風に吹かれて地獄の森羅殿へ落ち、閻魔大王の前に引き据えられました。閻魔大王の雷のような詰問にも、杜子春は鉄冠子の戒めを守って黙秘を貫きます。怒った大王は鬼どもに命じ、杜子春の両親を連れてこさせました。 地獄の責め苦によって二匹の痩せ馬の姿に変えられた両親は、鬼たちの鉄の鞭で激しく打たれます。肉は裂け骨は砕け、絶叫する両親の凄惨な姿に杜子春の心は激しく揺さぶられました。それでも必死に耐えて目を瞑る杜子春の耳に、消え入るような母親の声が届きます。「心配しておくれでない。私たちがどうなろうと、お前さえ幸せになれるのなら、それより嬉しいことはないのだから。言いたくないことは黙っておいで」 その慈愛に満ちた言葉に杜子春が思わず目を開けると、瀕死の馬となった母親が悲しそうに、けれど温かく自分を見つめていました。自分の欲望のために人々から見捨てられ、今また親が悲惨な目に遭っているというのに、なおも自分を思いやってくれる親の真実の愛。人間らしさを忘れなかった杜子春は老人の戒めを投げ打ち、転がるように走り寄ると、馬の首を抱きしめて「お母さん」と一声叫びました。 ハッと気づくと、杜子春は元の洛陽の西の門の下に立っていました。傍らには鉄冠子がにっこりと笑って立っています。仙人になる修行には失敗しましたが、杜子春の心は今までにないほど晴れ晴れとしていました。「これからは何になっても、人間らしい、正直な暮らしをします」と誓う杜子春に、鉄冠子は温かい言葉をかけ、新たな生活の糧を授けて姿を消すのでした。
こんな思いをして生きている位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない杜子春 物語の冒頭. 主人公が直面している深い窮乏と人生への絶望が切々と表現されており、不思議な老人との出会いによって物語が大きく動き出す直前の緊張感を伝える一節です。
私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。杜子春 地獄の場面. 己の苦痛よりも我が子の幸せを第一に願う無条件の親心の尊さが凝縮されており、冷淡な人間社会の現実と対比される作品中で最も感動的な言葉です。
お母っかさん杜子春 地獄の場面. 仙人となって超然と生きることよりも人間らしい情愛を選び取った杜子春の魂の叫びであり、作品の主題である「人間の感情と道徳の尊さ」を象徴する核心的な一言です。
財産を失った杜子春は、仙人・鉄冠子の手助けで二度も大富豪になりますが、金銭目当てで群がる人々の薄情さに絶望します。仙人になるため「絶対に声を出さない」という修行に挑んだ杜子春は、恐怖や地獄の拷問にも耐え抜きます。しかし、馬に変えられた両親が苦しむ姿と母親の優しい言葉に直面し、感情を抑えきれずに声を上げてしまいます。修行には失敗しますが、人間らしさを取り戻した杜子春は正直に生きる道を選びます。
杜子春の心境の変化と、最後の試練でなぜ声を上げてしまったのかがよく問われます。富豪のときに集まった友人たちが無一文になった途端に離れていく場面での人間不信、声を出すなという鉄冠子との約束、そして地獄で親が苦しむ中で母親がかけた言葉が杜子春の心にどう影響したかを把握することが重要です。仙人になれなかったことが「失敗」ではなく「人間らしさの選択」である理由を理解することが求められます。
芥川龍之介が近代の日本語で書いた児童向け作品ですので、古典や古文の知識がなくても問題なく読めます。唐代の中国が舞台となっていますが、用いられている文章は明快でリズムの良い現代の言葉遣いです。情景や登場人物の感情が視覚的に浮かび上がるように工夫されており、難解な語彙も少ないため、子供から大人までスムーズに物語の世界へ入っていくことができます。
地獄の凄惨な拷問に耐え続ける杜子春の前に、馬の姿に変えられた両親が現れます。冷酷な世間に見捨てられた彼が、極限状態の中で触れる親の真実の愛と、最後に選ぶ自らの生き方とは何なのか。仙人になれたのか、それとも人間として生きる道を選んだのか、驚きと感動の結末をぜひ本文で確かめてください。
中国の原典では、杜子春が声を解してしまう理由や結末の描かれ方が異なり、宗教的な観念や道教的な色彩が強く残されています。一方、芥川龍之介は近代的な倫理観を取り入れ、親子の愛情や「人間としての正しさ」に焦点を当てて大きくアレンジしました。過酷な試練を経て杜子春が得た悟りの意味を、より身近で感動的な人間ドラマへと再構成している点が大きな特徴です。
西の門の下で途方に暮れていた杜子春の前に現れた不思議な老人が、夕日に映る杜子春の影の頭にあたる場所を掘るよう教えたからです。言われた通り掘ってみると車いっぱいの黄金が掘り出され、杜子春は瞬く間に大富豪となりました。一度全財産を使い果たした後も、同じ老人が再び現れて同じように金を掘り当てる方法を教えたため、二度にわたって富を得ることができました。